ヴェルディシモン・ボッカネグラ」@オペラ・バスチーユ
シルヴァン ・ カンブルラン(指揮) パリ・オペラ座管弦楽団&合唱団
ヨハン・シモンズ(演出)
カルロス・アルバレス(シモン・ボッカネグラ)
アナ・マリア・マルティネス(アメーリア)
ステファノ・セッコ (ガブリエーレ)
フェルッチョ・フルラネット(フィエスコ)
フランク・フェラーリ(パオロ)
シモン・ボッカネグラ」の新演出を手掛けたのは、オランダ人演出家ヨハン・シモンズ。演劇界ではそこそこの実績の持ち主らしいが、彼のオペラ進出は失敗に終わったと言わざるを得ない。
プロローグの舞台装置は、中央にフィエスコの巨大な顔写真の看板のようなもの(選挙キャンペーンの舞台を真似ている?)があり、あとは舞台の後方が銀色のキラキラ光るカーテンで囲まれているというシンプル極まりないもの。主要男声陣は皆背広を着ているので(ボッカネグラだけはプロローグでは労務者風)、舞台は現代に置き換えられている。その時点でこのオペラの重要な要素である海の香りや情緒は消し去られたと言えよう。だからといって、これが現代の血生臭い政争劇として成り立っているかと言えば、答えは否。歌手の動きも舞台装置も手抜きとしか言い様の無いお粗末さで、オペラの舞台を現代に置き換えただけで演出家の仕事は終わったとでも思ったのだろうか。
伯爵家の庭園であるべき第一幕第一場では舞台前景に銀色のカーテンが引かれ、その前で歌手たちが仁王立ちで歌うばかりで、さしたる動きも無い。これではボッカネグラとアメーリアが父子であると判明する場面の感動も冷めてしまう。
第一幕二場以降の装置は、フィエスコの巨大看板がボッカネグラに変えられるだけ。そこで殆どの物語が展開されてしまう。これが、元々分り難い物語を一層難解にしてしまっている。巨大看板がその効果を唯一発揮したのは、アメーリアがボッカネグラにガブリエーレとの結婚の許しを請う場面。ボッカネグラとフィエスコの顔が二重写しになり、フィエスコもかつて娘からボッカネグラとの結婚の許しを請われたであろうことが示される。25年の時を経て、父娘の状況が繰り返されているのだ。
それ以外に演出的に見るべきは、せいぜい群集の扱いぐらいで(オペラ座合唱団は見事な歌唱)、大した演技指導もなされなかったのでは、と思われるような全体として動きに乏しい演出であった。
そうした演出面のお粗末さに対して、音楽面は非常に充実していた。アルバレスは役柄を手の内に収めた余裕のある歌唱。フルラネットは力強く貫禄に満ちており、セッコの豊かな表現力には魅了された。マルティネスは少々不安定な部分はあったものの美声を聴かせていた。カンブルランの指揮は細部もおろそかにしない丁寧さが見受けられる一方で、劇的表現も豊かな引き締まったもの。オペラ管も持ち前の透明感のある響きで応えていた。それだけに、手抜きのモダン演出が返す返すも残念。